YouTube
楽しいですよね。
いや、もはや「楽しかった」というべきでしょうか。
というのも、最近ちょっと足が遠のいています。
以前であれば毎日仕事がある日は2時間くらい。
休みの日には3-4時間は視聴していたと思います。
ですが、年が明けて2020年の2月の今や数えてみれば週に2日か3日。
見ない週もあるくらいです。
ブックマークをたどろうかなと思っても、やっぱりいいやとなることが多かったような気がします。
そういえば何でだろう? と思ったわけです。
コンテンツの自粛の弊害
YouTuberの方々は、その収入の多くをYouTube視聴に対する広告掲載から得ています。
一定時間見られた広告に対して、掲載した動画チャンネルに対価が支払われる仕組みです。
YouTube広告が始まった当初は掲載して再生されれば広告費用は出たわけですが、2017年4月からチャンネル登録者数1,000人で総再生時間4,000時間の条件が課させられました。
広告はがしが始まり配信内容が無難なものに
ここまではまだよかったのですが、最近は広告出稿者(主に営利企業)からの要望なのか親会社であるGoogleの何らかの意向なのか不明ではあるものの、一部のクリエイター(=YouTuber)に広告がつけられなくなるケースが散見されるようになりました。
報告・苦情をベースにした目視やAIで画面や音声、字幕などで問題のあるコンテンツを検出し、対象となるコンテンツ=映像作品に広告がつかないような仕組みが導入されたからです。
過敏にも感じられる広告内容判定の精度
いわゆる「広告はがし」と呼ばれるもので、私がよく視聴させてもらうチャンネルの運営者の方もこの広告はがしに遭って、収益化できない動画が増えていると嘆いておられました。
この方はチャンネル登録者数は10万人を超え、主に政治的な論評をしています。
トークの中で東アジアの近隣諸国のニュースをテーマにすることが多く、その一環で触れた内容が「ヘイト」表現だと判定されてしまっていることが多いようです。
なんでも国名やその国の指導者名、はては関連して日本の野党の名前を出しただけで広告はがしが行われているのではないかというケースさえ、あったそうです。
通報や指摘などがあったとも思いますが、いささか過敏過ぎる判定ではないかとも感じられます。
結果として萎縮化していくコンテンツ発信
その結果として、配信者側も広告はがしを恐れて内容がどんどん無難なものになっていっているようです。
いわゆるNGワードを別の言い方に置き換えたり「ピー」音を入れてみたりしても、通報(これも基準が怪しい)されてそれが認められれば、以降そのチャンネルの表現置換は記憶されて措置は続くわけです。
そうすると、今度は配信者側は自主規制の度合いを強めて表現をもっと婉曲にしたり、更には内容まで変更せざるを得なくなるまでになっています。
この自主規制というのか萎縮化というのは、結構影響が大きいと思います。
「好きなことで生きていく」と一時期喧伝し、いかにも「自由な表現が認められる」かのような広告を打って作る側も見る側も引き込んだYouTubeですが、好きなことにも一定なルールが必要ということです。
そのルールを決めるのはYouTubeであり親会社のGoogleなわけで、決して作る側でも見る側でもないのですね。
表現の阻害は自分の首も絞めかねない
ただまあ、その判定が規定やコンプライアンス違反だと通報する人や広告出稿者の意向に大きく左右されるのも、ちょっと問題なのかなとも思えます。
気に入らない表現やコンテンツ、あるいは配信者に対して一律に通報やクレームを入れれば(判断する側の姿勢にもよりますが)、ある程度通ってしまうわけです。
これは、自分と立場を異にする表現者の妨害や、表現の自由の侵害にもつながりかねないのではないかなとも感じます。
目的を果たせばオッケーな人は多いのですが、通報やクレームを入れ続けて表現の自由を奪っていくことが、長い目でみて自分の首も絞めていくことを自覚した上で、行わないといけないのではないでしょうか。
このことはYouTubeに限ったことではありませんが、そのことを踏まえた上で通報・クレームは行ってほしいものだなと考えます。
YouTubeによるワンストップでの集客即収益化のスキーム
ついでに言いますと、あまり云われていないような気がしますが、YouTubeの構造的なメリットの一つに広報と収益化がワンストップであることがあります。
ネットの通販ポータルサイトにおいても同じような効果があるのですが、いわゆる「小規模でも勝負できる」舞台がYouTubeにはあったのかなと思いました。
「優秀な製品を作っているのに儲からない企業が救われる道は、ネット(通販)だ」ですね。
言論や表現について置き換えて言えば、少数意見やマイナーな表現形態でもなにかのきっかけで目に留まり、発信者側のコンテンツに目を向けてくれる機会が与えられています。
加えてここに即といっていいほどの収益化のスキームが出来ていて、集客と収益の精度が非常に高かったように感じていました。
これについては、対視聴者数に対して配信者数が増えるに従ってその精度が下がるのが必定なわけですが、コンテンツを作る側も萎縮していくと視聴者を引きつけるコンテンツを作っていくことができなくなっていくわけです。
これは結果としてYouTubeという映像コンテンツの魅力の低下になるわけで、Google様も画一的な判定でなく実情に即した判定を行っていただきたいものです。
エコーチェンバーなコンテンツ提案
表示されるコンテンツが画一的なものになる仕組み
続いてYouTubeの視聴ポータル=トップページの仕組みについて述べます。
YouTubeは視聴者に提供するコンテンツの最適化を行っています。
何をやっているかを簡単に言うと「視聴者が見たいものを見せる」というコンテンツ提案です。
いつも同様な内容では飽きてしまうのは当然
同じことはAmazonのショッピングページへ行くと、気づきます。
「あなたの購入履歴に基づいた商品」や「この商品を購入した人はこんな商品も見ています」に代表されるサジェスチョンをみ覚えている方は、少なからずおられるはずです。
これがYouTubeでは視聴履歴に始まり「いいえ!」をつけたりチャンネル登録などやそれに類似する(ロジック的に判定された」動画が、ポータルに表示されるわけです。
便利な機能であることに疑いはありませんが、かつての私のように毎日結構な時間見るユーザからすると見飽きてしまい、(錯覚なのかもしれませんが)画一的で面白みのないコンテンツしか目に入らない=こんなのしかないんだ、と感じてしまうのではないでしょうか。
エコーチェンバーという言葉がありますが、これはまさにそれ。
結構な頻度である意見と反対の見解を出しているような動画を見たくなるのですが、ピンポイントで検索する場合はともかく、そういった動画はなかなか自分がログインした状態では見ることがないのです。
それがポータルに飽きてしまう大きな要因ではないでしょうか。
結局テレビと同様なところへ行き着くことに
でまあ、上の2つの要因をぼんやり考えていると、ある共通点の多いコンテンツを思い出しました。
ちょっと似たところのあるテレビですね。
魅力を失った理由はテレビとほぼ同様
テレビはまだまだ魅力のあるコンテンツという向きもありますが、十数年前までのテレビと比べると魅力が大きく低下していることが分かります。
魅力を失ったポイントを見ると、論ったYouTubeと似ています。
- コンプライアンスに配慮し自主規制した結果、内容が面白くなくなった
- 視聴率優先のあまり類似・同系統の内容が多くなった
テレビの魅力が低下した理由の一つに、(社会的な要望もあるとはいえ)表現の自由度を自ら下げてきたことがあります。
魅力=集客力でもあり、広告価値にもつながるわけですが、
にしても、生物の数にしても生産物や金融にしても一定水準まで膨らんだものには、殆どどこかで抑制作用というのか縮小作用が働くものなのだなと小さく感心しています。
言い換えれば、YouTubeもそれだけ大きなコンテンツなのということの証左なのかと。
とはいえ相変わらず大きなコンテンツであり続ける
という具合に魅力を失ったなどと言ってますが、YouTubeはまだまだ大きなコンテンツであり続けるのでしょう。
テレビもしばらくは。
趣味性の高いコンテンツは砂場遊びに似ている
今までの経験でいうと、こういう趣味性の高いコンテンツというか場所は、子供の頃の砂場遊びに似ているように思います。
少数で楽しく遊んでいるところへ、楽しそうだからと大勢の子どもがやってきて、砂場が窮屈になる。
好き勝手に砂をいじっていたのに使う砂も場所も行動も、いつの間にかある種の制限を受けて面白くなくなる。
そうすると「ま、いっか」と他の遊びへ移る。
YouTubeはそれほどでもないのかもしれませんが、共通の部分はあることと思っています。
というか、これは仕事というか商売においても同じことがいえますよね。
(了)